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Hōkele Malama Columns

親ページが「Residencial Azul」から「Hōkele Malama」に変わったので、このBlogのタイトルも変わりました。渾身の(とまではいかない)Columnページです。

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ダイスケとかノブナリとか

いらっしゃいませ、

バンクーバーオリンピックって、やってましたね。

ほとんど見ていないのです。

生で見たのが、フィギュアスケート男子のSPとフリー、女子のSPぐらい。

なんでか?

テレビのある部屋から、この冬寒さのため撤退したからでした。テレビを
残して、居間&寝室を移動。

ネット上でなんだかんだと騒がれていましたが、フィギュアスケート。6人も
出場して、全員が入賞するなんて、隔世の感です。

伊藤みどりという天才が、突然変異のようにポッと登場する以外は、
このスポーツは、日本人とは係わり合いがないように思っていた。

私が子供のころには、たぶん誰かいたんだと思うけれど、子供の目に
入ってくるところまではなかったのだろう。今は、2歳の子に、
” まおちゃんみたいに、まわろー”
って言っても、みんな喜んでくるくる回る。

なのに、

である。私が子供のころ、子供の足だけで行ける範囲に、なんと3つも
スケート場があった。

梅田にひとつ。今は、ホテル阪急インターナショナルホテルが建っているあたり。

なんばにも。ナンバ球場の中だったように記憶している。

そして、海の近くに、もっとも巨大なスケート場が存在していた。

前述の2つは、フィールドリンク(っていうのでしょうか)だけしかなかったが、

3つめのそのリンクには、外側にスピードスケート用のトラックリンクがあった。

天井は、子供の目にはどこまでも高く見えた。


ラサ・スケートリンク。


今は、URの団地になっているらしい。

昭和の風景をいくつかあげろ、と言われたら、大阪万博の会場などとともに、
私は、このスケートリンクが頭に浮かんでしまう。

たった一回しか行ったことはなかったけれど、その巨大なハコに多くの人々の
歓声や嬌声が響き渡っていたのを、はっきりと覚えている。

それらのスケートリンクは、優れたスケーターを生み出すことはなかったし、
バブルの頃あたりだろうか、ひとつひとつその姿を消していった。
(その時期さえ、はっきり覚えていないくらい、ひっそりと)

ニュースで、フィギュアスケーターたちが、スケート場の存続を訴えている
姿を見る。

こんなにたくさん、レベルの高いスケーターがいる現在は、逆にスケート場が
ない。

もちろん、ハコだけの問題じゃない。ハコはあっても、当時はソフトの問題、
指導者や選手のバックアップがなかったのだろう。

たとえば今、梅田あたりにスケート場を作ったとして、今のフィギュア熱は
どれだけの人を呼ぶのだろうか。

だいたい、若い人たちは、どこで何をしているのだろう。

スキー場からも、テニスコートからも、若者が消えていった。

オリンピックを見て、ふと思ったのはこの程度のことでした。
まあ、その程度しか見てなかったのだけれど。。。

ワールドカップは、ちゃんと見よう。

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写真のこと、旅のこと、本のこと、言葉のこと、音のこと、などを描いて撮ってます。

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