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Hōkele Malama Columns

親ページが「Residencial Azul」から「Hōkele Malama」に変わったので、このBlogのタイトルも変わりました。渾身の(とまではいかない)Columnページです。

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Those Hotels #9 ワイキキの果て

この町で泊まる時は、贅沢感は一切求めたことがなかった。
使い勝手と、便利さと、安さ。
ホテルやコンドミニアムに、リゾートを必要としないからだ。
ここは、お土産買いの追い込みの町。
ちょっとは洗練されている食事にありつける町。
それなりの対価を惜しまなければ。

ワイキキ。

この町で、一度、場末感のあるホテルに泊まったことがある。
その名は、「EVA Hotel」。

場末といってしまったのは、施設がおんぼろだとか、あたりが
治安が悪そうだとか、そういう意味ではない。

ラナイはとことん狭く、オーシャンビュー?高層ホテルの裏手にあるので
ストリートビューオンリーだ。でも、ワイキキにオーシャンビューなんて
必要?2,3ブロック歩けば海やん。

シンプルなミニキッチンがついていて、コインランドリーもホテル内に
ある。泊まった2000年当時で、インターネットカフェがあった。ホテル外
から利用者が来ていたくらいだ。日本語の入力もでき、フロントスタッフ
の中には日本語ができる人もいた。
個人的には使い勝手がよく気に入っていたのだが、連れの叔母が
日本に帰ってから文句を言っていた。でも、そもそもマウイでシェラトン
に泊まって「高い、高い」とぐちゃぐちゃ言ってたから、思いっきり
オアフで節約してあげたんだよ。
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場所も悪くない、ワイキキまで2ブロックほど。すぐ隣は私の好きなカピオラニ
公園だ。最終日、この公園の抜けて、ダイアモンドヘッドの麓まで
ジョギングした。

2泊の滞在だったけれど、長くいると味が出てくるようなホテルだった。
実際、住み着いている人がいた。その人と廊下ですれ違ったとき、
そう、感じたのだ、「場末感」。

想像するにたやすいが、おそらくアメリカ本土の西海岸から流れ着いてきた
と思われるカップル。若くはない。フラワーチルドレンの枯れ花。
男は、見るからにアル中。体もかなり壊している感じで、若作りの女が
彼を支えてゆっくりホテルの廊下を歩く。酒の匂いがフッと漂う。

もうどこにも行くところがない。行けたとしても安ホテルの廊下のつきあたり。
どれだけ過ごしたのかも忘れてしまった部屋。

派手なアロハシャツとムームーの取り合わせが、もの悲しい。

ホテルの名誉のために言うと、そんな人たちばかりが泊まっていたわけではない。
ホテル代を節約して、ハワイをとことん楽しむ人たちも多い。

3年前にオアフに立ち寄ったときは、本当に片足つく感じの一泊だったので、
Eva Hotelは選択しなかった。
あれから10年。もちろん、あのカップルはもういないだろう。

さて、どこへ漂い流れたか。
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※今やっぱり値上がりしてる。。10年前は3人で(たぶん)Superiorに泊まって、
一人2000円ぐらいだったのになぁ。

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Those Hotels #8 名もなきホテル

いらっしゃいませ、

名前はちゃんとあるのである。

ただ、覚えていないだけで。

目的の場所ではないがゆえに、ないがしろにされるのだ。利便性と手っ取り早さ
だけで選ばれたホテル。

トランジットのために、「宿泊しなければならない町」で取ったホテル。

オランダの2泊はまさにそんな滞在。

いいホテルは必要ない。便利であればいいのだが。。。泊まらなければならない状況
というのは、急にやってくる。え?オランダ?2泊(行きと帰りそれぞれ)?聞いてないよ!
アムステルダム?英語通じるの?!

軽いパニックに陥りながらも、電話でなんとか予約したホテル。一泊づつ違うホテル
にしたのは、滞在時間によるものだった。往きは寝るだけだから、空港に近い
ホテルに、帰りはかなりトランジットに時間があったから、観光できるように街中のホテルに。

で、どちらも名前を覚えていない。

だが、その外観、周りの風景、ホテルのレストラン、廊下、部屋の感じ、
をけっこう覚えているのだ。飛行機の中でほとんど眠れずに、じりじりする睡魔と
戦いながら、まだ明るいアムステルダムの平坦な、ただひたすら平坦な
そして退屈な風景をホテルの窓から眺めていたことを。

帰りのホテルは、体力・精神ともにストレスの極致にありながら、
それでもチェックイン係である私は、かなりハイになってフロントの兄ちゃんと
はしゃぎまくったことを。

ホテルの前の通りを、トラムが高速で通り過ぎる。誰も轢かれたりしないん
だろうか。

何もかもがやたら大きかった

「オランダへ行こう」と、思うような要素が私の中には何もなかったのに
(今でもないのに)、割安なKLMという飛行機会社のおかげで、
何度か、その地へ降り立つのだが、

平坦で、

退屈で、

平坦で、

退屈な、

そんな時間がただ通り過ぎ、

そして、帰国した翌年の春には、こいつらが満開となるのである。

今回は2年目の春を迎えた。

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2008年(このときは、泊まらなかったが)夏のアムステルダムで、
ハイネッケンでほろ酔いになりながら買ったチューリップ。

咲かせてみたら、あらびっくり、首がない。

2年目に咲かせたのは今回が初めてで、

ああ、オランダとはやっぱりいい縁があるのだろう、と思う。

じゃあ、オランダへだけの旅行ってするんだろうか。

まずはないと思う。

田んぼのど真ん中にあったホテル、まったく味のしない大盛のサラダを出す
レストラン、従業員の感じのいい笑み、

やはり、名前は思い出せない。






Those Hotels #7 眺めのない部屋

いらっしゃいませ、

47都道府県めぐりが終わったあと、ちょっとぐったり。あらためて読み返すと、
未踏破の県が1つ多かったことに気づいた。踏破した県は39県。後8県か...
と言って、絶対踏破したいという野望も実はないのだけれど。

シリーズものが2つ(「大地に還って来た」と「47都道府県の記憶」)挟まったので
すっかり忘れていたもう1つのシリーズもの、「Those Hotels」。
あまり肩に力入れずに続けてみようと思います。

「トスカーナ・ブーム」っていうのがあったみたいで。
時期的には「プロヴァンス・ブーム」の後なんだろうか。
プロバンスの時のように、「南仏プロヴァンスの12ヶ月」というビッグ・アイコンはなかった。
映画とか、雑誌とか、エッセイ本とか、細かいもんで盛り上がってたような記憶がある。

ただ、私にはひとつの確信があった。プロヴァンスとトスカーナの比較にあたって。

「絶対、トスカーナの方が美味いに違いない。」

プロヴァンスの旅の連れであったMちゃんと再び旅立つ。彼女の方が、食に関する
情報収集力が強い。

今回の旅のテーマは「トスカーナ」であったはずなのだが、途中で「シチリア島」
なんていう候補地も出てくる。これは、トスカーナ以上に私の思い入れがそこにあった
だけの話なのだが、これは距離、日程を考えて却下することとなった。

どこかで何泊かステイをすることで、じっくり旅ができる。最終的には交通の便を考え、
フィレンツェで4泊することに決める。

さて、宿だ。4泊するのだから、便利でかつ心地のよいホテルがよい。雑誌や特集本では
大型ホテルではなく、プチホテルがもてはやされている。Mちゃんと吟味の末、
決めたホテル、が、名前を全く覚えていない。ただ、4泊もしたものだから、おまけに
フィレンツェの旧市街が非常にコンパクトであったため意外に場所を覚えていた。
ネットで地図を確認しながら、記憶にあった姿形とほぼ重なるホテルを発見した。

Hotel Donatello Florence

でも、こんな名前でなかったように思う。おそらくホテルチェーンに組み込まれたのでは、
という推測をする。

サイトの写真を見ると、窓が大きい。この部屋は公園に面してるのだろう。
私たちの部屋は、窓がとても高いところにあり、おまけに小さく、二重になっていた。
夜寝るときに納得した。公園の反対側、おそらく道路に面していたのだ。非常にうるさかった。
そら二重がいいわ。とにかく、フィレンツェはうるさい町だった。細い路地を車やバイクが
クラクションを鳴らしながら駆け抜ける。観光客(含む私たち)が石畳を鳴らして歩く音。
ドォーモの容赦のない鐘の音。

窓を開けると、広々とした町並みとドォームの屋根が見える、というシチュエーションが
必要なら、もう少し郊外のホテルに泊まらないとだめだ。

このホテルについては、これ以上、何も語ることはない。
名前すら覚えていないホテルを、ネットの上をフラフラと探して廻ることが
ちょっと面白かった。今は、Google Earthなんてものもある。

トスカーナをめぐる旅をするのであれば、シエナという町に連泊した方が
もっと満喫できたかもしれない。私たちは、結局トスカーナ以外に、パルマ、ヴェネチア、
ローマに泊まった。その点から言うとフィレンツェは正解だったのだが。

さて、トスカーナはプロヴァンスより美味しかったか?これは、あたり。ところが、

フィレンツェより、パルマ(ロマーニァの方がもっと美味かったのだな。


Those Hotels #5  I'm not your mum!!

いらっしゃいませ、

ホテル、コンドミニアム、ペンサオン(※ポルトガルの簡易ホテル)、ボウダーザ(※ポルトガルの旧跡などを回想した国営のホテル)、旅館、民宿、コテージ...

いろいろな国のいろいろな種類の宿泊施設に泊まった。ただし、バックパッカー用の安宿の経験はない。そういう旅はしなかったのだ。「深夜特急」は好きだが、「深夜特急のような旅」は好きではない。

ずっと泊まってみたかったのが、「B&B」。Breakfast & Bedの略。朝食つきのお部屋、ってことだけれど、ホテルではない。大家さんが居て、同じ敷地の中の離れなり部屋なりに泊まり、朝食は大家さんがサービスしてくださる、というパターンが多い。

ハワイ・カウアイ島の「キアフナ・プランテーション」の近くに、こじんまりしたB&Bがいくつかあり、いつかこんなところにも泊まりたいね、って思っていた。

2007年、初めてのハワイ島。かなり入念に調査を(ハワイ島本やWebをチェック)し、宿泊地・宿泊先を絞り込んで行く。ハワイ島の特徴は、「いいホテルは限りなく高く、経済的なコンドミニアムもそこそこ高い。」
ハワイ島のB&Bは数年以上前に確かニック加藤さんの本で、ちょっとした(ほんとうにちょっとした)ブームになった。ただし、ハワイ島のB&Bは、海や街から若干以上離れているところが多い。

どのみちどこへ行くにも車だし。ってことで、えい!と申し込む。メールを出した先は、

1st Class B&B
ちなみに↑のサイトに投稿されている写真は、私がアップしました。コメントは違う人です。
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まあすごい名前だわ。で、大家さんは英語オンリーだから、預かり金をTCで郵送して(すごっくワイルドでスリリング)、予約完了するまでハラハラドキドキの毎日だった→こちら。どこかのクチコミサイトで、このやり取りでトラブルがあってこのB&Bを「星ひとつ」にしている人がいた。これだけのデジタル&インターネット時代だが、やりとりはすごくアナログ。だってその相手は、うーん多分70歳は過ぎているおばあさまなのだから。Webサイト立ち上げてたり、E-Mailでやりとりするだけでも「すごい!」って思ったけど。「星ひとつ」にした人は、彼女がそんな高齢とは思ってもいなかったんじゃないかなぁ。結局泊まらなかったみたいだし。

実際会ってから...

「このあたりに、システムがあるのよ。」

彼女が部屋の上の方に向かって、腕を回す。最初はなんのこっちゃ、とぼんやり見ていたのだけれど、「ああ、」と気づいた。無線LANね。

とくかく、彼女と対峙するときは、何事も一呼吸おくと、おもしろいのだ。なので短期間の滞在だと、もやもやしたまま帰る恐れがある。なんか干渉されて、怒られて、なんなのよ、みたいな。幸運なことに、Kがこの手のおばちゃんに何故か愛される。大家さんD(と呼びます)は、私らを頼りないアジア人カップルと思ったのか(確かに頼りない)、いろいろ世話を焼いてくれる。これがうっとうしく感じたら、B&Bはあきらめるしかない。

大家Dが、こまごま私たちに指示する。Kが答える。

「OK, mom.」

大家Dが、キッとなる。

「I'm not your mother. I'm your grandmother!」

確かに。

このハワイ島の旅は、夫であるKの健康状態があまりよくなかった。でも運転してもらわんことにはどこにもいけないBig Island。けっこう彼にはきつい旅だったのだ。私の夢に付きあわせてしまった。

後日、「またハワイ行きたいなぁ」と私。二度とイヤや、って言うかと思ったら、

「ハワイ島やったらいい。」

かなりオアフ、というかワイキキは辟易した模様。私もこれには同意見だった。

「Dに会いたい」

うん、私も会いたい。

あれから、私たちもいろいろ生活が変わった。簡単にいける場所ではないけれど。
いつの日かまた。大家Dと、Gekkoたちに会いに。
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Those Hotels #4 画家の名前ホテル その2

いらっしゃいませ、

画家の名前ホテルその1を書いた後に、なにかぽわーんと抜けていたのか、頭の中が支笏湖に飛んでしまっていた。ブログをじっくり眺めて気づく。じっくり眺めないと気づかないものどうかと思う。

荘厳とか、壮大とか、雄大とか、猛々しいとか、優美とか、そういう形容詞が邪魔くさくなってくるようなモノっていうのがある。音楽とか映画とかでもあるかな。ステキ!とかすばらしい!とか感動しました!とかの文字の羅列は、ごみの日に持っていってほしい、とまで思ったこともある。形容詞を使わずに思いが表現できれば一番よいのだろうけれど。

そう、そんな形容詞が火曜日の燃えるごみの日に消え去るような「サン・ビクトワール山」の視線を痛いほど背中に受けながら私たちはエクサン・プロバンスを離れる。マルセイユで乗り換えて、アルルへ向かう。私にとっては10年ほどのブランクの後の2度目の町。その間に、ピーター・メイルの「南仏プロバンスの12ヶ月」が出版され、大ブームとなった。実は私自身この本を買って、10ページも読まずに今回の旅の連れであったMちゃんに貸した。Mちゃんはちゃんと読破した。なので、彼女のほうが、南仏のミストラルやきのこの見分け方や南仏料理には詳しいのだ。

私と言えば、そういえば10年前にそのミストラルと呼ばれるもの、を経験していたかもしれない、っていうだけだった。11月の末にパリと南仏を訪ねたのだが、「当然南の方が暖かいでしょ。『南仏』っていうぐらいだから。」という意味のない確信だけをもって、比較的その時温暖だったパリを、更なる薄着を身にまとい、離れたのである。アルルからカマルグを抜けて、サン・マリー・ドゥ・ラ・メールという地中海に面した小さな村にたどり着く。突き抜けるような雲ひとつない青空。そして強風。だから雲がないのだ。おまけに雪まで舞い始める。すべてのアクティビティは10月末で終わっている。海辺の人気のすくないレストランで、雪を眺める。ただし、この雪は地元の人にも珍しかったようだ。「こんな寒い日にわざわざどこから来たの?」っていう店の人の、それでも暖かい視線を感じたものだ。

さて10年後、アルルに着いた私たちは、10年前に私が泊まったホテルを訪ねてみる。ん、高いぞ。それから、「地球の歩き方」で評価の高かったかなり経済的な宿に行き、部屋を見せてもらう。Mちゃんがあまり乗り気ではない。彼女はやはり駅近で先に見ていたホテルに気持ちが残っている。あ、これはエクサン・プロバンスと同じパターンだ。宿のおばあさんはやさしそうな人だったので、断るのはしんどかったけれど、Mちゃんは先に外に出てしまっていたので、「友達が暗くてこわい、って言ってるので」って、理由に使わせてもらう。これも言わば、「役割分担」なのだ。うそではないし。

駅近の広場に面した、最初に目をつけていたホテルは、その名も

「Hotel Terminus et Van Gogh」

今度はかの「ヴァン・ゴッホ」である。1つ星。安い。一応シャワー・トイレつきの部屋にしたものの、それらにはドアはなくカーテンで仕切られているだけ。けれど、清潔だったし、悪い印象はなかった。宿のおじさんも気さくでやさしそうな人だった。

もともと、このホテルのあったあたりにゴッホの有名な「黄色い家」があったらしい。第2次世界大戦で焼けて、区画が変わっているが、うっかりするとこれがその建物か!?って勘違いしそうだ。うん、勘違いだ。このあたりは他のもホテルがあるから、同じ場所からの風景を求めて旅する人も多いと聞く。
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黄色い家の「ゴッホの部屋」の絵は、パリの印象派美術館(現オランジュリー)やオルセー、日本でも観たと思う。日本で見たときは、おばさんたちが「やっぱり広い家に住んではったんはやなぁ」と感嘆していた。
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う、うん、日本人の感覚から言ったら、広いのか。どうだ。

とにかく、この町でもゴッホづくしになる予感が体を満たしたのは、案内された部屋が「ひまわりの間」であることを知った時だったかもしれない。隣は「アイリスの間」だった。ここには、オランダから1人ゴッホ巡礼をしている男性が泊まっていた。これは正しい。ゴッホはオランダ人なのだ。このあたりからエコール・ド・パリと、有名画家を、フランスは全部取り込んでいるから(別にフランスが悪いわけではないのだけれど)、似たような誤解で、ピカソがスペイン人というのを知らなかった人もいる。パリの「ピカソ美術館」で、その女性は大きな声で「え!ピカソってスペイン人なの?」と叫び、次に私の冷たい視線に気づき(日本人が居ない気楽さで口に出してしまったらしいが、ふふふ、ちゃんと居たのだ。)、そそくさとその部屋を出て行った。

オランダ人男性は、アルルに来たことをとても嬉しそうに語っていた。はやり郷土の誇りなのだろう、ゴッホさんは。生きているうちにそうして欲しかった、なんてことは、私らには言う資格はない。

しかしながら、どんな国のどんな町でもあることなんだけれど、ちなんだ土地や絵が描かれた場所なんかには本物の絵はないことが多い。小さな自治体には高価な絵を得たり、維持したりすることが出来ないのだろう。エクサン・プロバンスにもなかったし、アルルにもなかった。でも、「ゴッホ記念館」なるものが出来ていた。もちろん入らなかったけれど。10年前にはなかった代物だ。ただし、ゴッホの絵ははい。

ゴッホが居た町を訪ねたくて訪れた10年前の旅。その時に思いはすべて満たされたから、今回はただただ旅そのものを楽しみたくてきた。せっかく本を読んでくれたMちゃんにも、プロバンスを満喫してもらいたかった。にもかかわらず、町はプロバンスブームとゴッホをかき混ぜて浮かれていた。まあ、これも旅の醍醐味、と言うわけではないが、ムール貝をバケツいっぱい食べよう!と入ったレストランも、「ゴッホ」の名前が付いていた。思わず苦笑い。

が、この旅の終わり、パリに戻って数日を過ごした後、私は「オヴェール・シュル・オワーズ」、ゴッホ終焉の地へ1人足を伸ばしてみた。アルルのゴッホまみれにやられたわけではないけれど。。。彼の最後の部屋は、この村では現存していて、中に入ることが出来る。「バスで連れてこられた」風情の不機嫌な日本女子2人とこの部屋に入った。展示物の椅子に座るなど傍若無人な振る舞いをしていた奴らだったが、1人でこの部屋に入ることを考えたら、まあ仕方ないか、と思った。1人で居るには、ほんと、ちょっとしんどいと思う。

そしてこれも何かの縁なのかもしれないが、Mちゃんと最後に行ったイタリア旅行で、旅行会社の勘違いでアムステルダムに1泊することになり、「ゴッホ美術館」に行く時間を得ることができた。今、ほとんどの絵画が、彼の故郷であるオランダにある。ゴッホ財団については色々批判もあるけれども、ある意味正しいことのようにも思う。

で、後ろにふんぞり返るぐらいゴッホの絵を貪り食った。何かが終わった気がした。とても陳腐な言い方に聞こえるけれど、本当だからしょうがない。ゴッホへの長い旅が終わったのだ。

Those Hotels #3 - おひとりさま

いらっしゃいませ、

ひとりでホテルに泊まることは多かった。まず仕事の場合はたいていビジネスホテルに1人。海外旅行でもけっこう1人で泊まった。そういう行為に違和感はまったくなかったのだが、「日本の旅館に女1人で泊まる」経験はなく、「おひとりさま」時代になっても、けっこう嫌がられることもあり、泊まる側にも躊躇があり、宿選びはかなり慎重になる。
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北海道へ1人で行く機会があった。Esquina do Somと鹿糠ちはるさんの札幌ライブがあり、札幌に行ったことがなかったし、夏休みを利用して出かけることにした。札幌は別に問題ない。都市のビジネスホテルにはシングルルームはいっぱいあるし。ただ、札幌だけで過ごすのはせっかく北海道に来たのにもったいないと思い、近場で「北海道らしい」ところを探し、比較的空港と札幌に近い「支笏湖」に目をつけた。

このとき、「いとう温泉」に決めたのは、確か「女性一人お泊りプラン」がその時あったからなのだ。食事を取るダイニングも、なんとなく昔のユースホステルや国民休暇村っぽい。気兼ねもあまり要らなさそう。

千歳に降り立ってから、バスで支笏湖に向かう。曇天。支笏湖についた頃には、かなりな雨。湖の周りには散策スポットがいろいろあるのだけれど、コロコロをひっぱって傘をさしながらでは、いけるところも限られる。だいいち、景色が見えん。バス停付近の町?には飲食店もあるのだが、この天気もあって閑散としている。一人旅というのは微妙なもので、にぎわっているところで1人でいるのも落ち着かないが、人気のないところに1人でいるのもやはり落ち着かない。チェックインの時間には早すぎるけど、宿に電話をかけ迎えに来てもらうことにした。「確か宿には『湖の見えるレストラン』があったはず、宿の中なら1人でも落ち着いて食事ができる。」と踏んでいた。

で、やってない。「軽食ならお部屋にお持ちできますが」と言われてメニューをみると、うどんやカレーなどほんまに軽食。北海道最初の食事がうどんてか?って、かなりがっかりしたけれど、おなかは空いていたし背に腹は変えられない。おひとりさまは、ひとり湖が見える(湖しか見えない)部屋でうどんをすする。でもこれが、なんというか、美味かったんだからしょうがない。

食べ終わったところで、何もすることがないことに気づく。大雨の中露天風呂には入りたくない。何せ、ここのお風呂は、「活火山恵庭岳の真下の湖岸に自噴している源泉を薄めず、沸かさず、循環せず、その湯船に注いでいる」。循環しないそのお湯は再び湖に流れ落ちる。そんなお湯を、あたかも湖に浸かっているように体感できる。雨の中はさすがにきつい。
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本を一冊も持ってこなかったのが不覚。部屋にころんと寝転がる。そのままうとうとする。雨の音しか聞こえない。湖のせせらぐ音はかき消されてしまったのか。溺れるように眠りに着き、そして目を覚ます。1,2時間は眠っていた。そういえば、こんな時間を持つこと自体、ここ数年なかった。網戸越しに外を見ると、雨がほとんど上がっていた。
遠い音がいつしか無音となっている。そうか、湖には波は立たない。
カメラを持って湖畔に出る。白人男性のお客さんと挨拶する。そういえば、この旅館のサイトは英語バージョンもある。野趣あふれすぎのお風呂を楽しんだ後、昼食のリベンジのような晩御飯。確かに連れがいればもっと楽しいのだと思うが、ひとりがつまらないわけでもまったくない。おひとりさまは気まぐれなのだ。自分の心にまかせられるのが居心地がよい気がする。

翌日、札幌行きのバスまで時間があるのでこの辺りで短時間で観光したい、ということを宿の人に相談すると、マイクロバスで案内してくださるとのこと。翌日は天気は一転、ピーカンだ。バスに乗り込むと、例の白人男性がいた。学会か国際会議かで仕事で北海道に来たのだが、せっかくだからと前入りして観光を楽しんでいるのだとか。これから洞爺湖に行くらしい。宿の運転手さんは英語が全然わからなかったので、別れ際に「助かりました」と逆にお礼をされてしまう。無料で案内いただいたのにこちらも恐縮。確かにひとりだと、他の旅人と話す機会がぐんと増す。(海外旅行は別だけど。特に日本人の若い女性グループは話しかけても無視されることがしばしば。)
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彼らと別れてひとりバスで札幌に向かう。札幌でも、すすきのをひとりぶらついたけれど、小樽でもひとり遊覧船に乗ったけれど、支笏湖での心地よい落ち着きのなさをもう感じることはもうなかった。







支笏湖 いとう温泉

Those Hotels #2 -画家の名前ホテル1

いらっしゃいませ、

なんでこのあたりに来るときはいつも私は金を持ってないの?

パリに着いた初日に、モンマルトルの駅で財布をすられる。現金わずかと、20フランのTC、クレジットカード、それと地方銀行のキャッシュカード。クレジットカードはすぐカード会社に連絡してひと安心だったが(割とそれまでの人生で、何度かクレジットカードを失くしているので、その後の処理は慣れていた)、それでもそれはそれ旅の空の下、かなりパニックに陥った。連れの1人に「こんな慌ててるJさんみたことない」とまで言われる。地方銀行のキャッシュカードは、なぜそんなものが財布に入っていたかすら記憶にないぐらい使ってないものだったし、TCはサインなしだから、結局彼ら(犯人らしき若者グループを友人が目撃)はわずかの現金を手にしただけだったけれど、まあビール1杯ずつぐらいは飲めただろう。でも、その後、TCが戻ってくるまでの私の労力を考えたら、ものすごく腹立たしかったけど。

だから、翌日パリを離れてプロヴァンスに向かう朝、もう1枚のクレジットカードとTCのほとんどをホテルの金庫の中に置き、現金だけ財布にいれたのだ。「たしかあっちはホテルもそんなに高くなかった」

その旅からさかのぼる10年前に、同じようにパリのホテルに荷物を置いて、プロヴァンスに向かった。そのときもカードを置いていった。初めての旅で、移動中に落としたりしたら大変だ、と現金だけで出かけた。

そう、確かそのときも、いつもお財布の中身を気にして、ろくに買い物もできなかった。なのに、、、そんなことをすっかり忘れてというわけではないけれど、10年という歳月と、「南仏プロバンスブーム」をみくびって出かけてしまったのだ。物価がかなり高騰していた。

そんなわけで、その旅でも、私は連れにお金を借りることになる。それだけでネガティブな気持ちになってしまう。パリですぐ返せるからもっとさっぱりきっぱり貸してもらえばいいのに。この辺とてもじとじとしている。

そんな私のじとじと心と共振するような雨に煙るマルセイユで乗り換えて、ローカル線でエクサン・プロヴァンスへ向かう。どの線に乗ったらよいのか、ホームの人に尋ねる。わさわさと人が集まってくる。中学生ぐらいの子も多い。きっと今日の夕食の席で、「困っているアジア人が、へんてこりんなフランス語をしゃべるんだけど、あたしわかったから教えてあげたの」とか言うのだろう。教えてくれたのは大人だい。でもありがとうね、いろいろ横からわいわい口出してくれたし。電車の中でもジプシーのご夫婦に降りる駅を教えてもらった。フランスであまり嫌な目にあったことはない。あかんのは公共施設の窓口とか、そういうところの人だ。でもそれは他の国でもある、フランスに限ったことじゃない。

エクサン・プロヴァンスに着くと雨が上がっていた。駅から街へ続く坂をあがる途中に、こじんまりとしたホテルを見つけた。

Hotel Paul Cezanne

いろいろ調べてみたら、今は別の経営になったか、移転したか、改築したかで、場所や外観が私の記憶とまったくちがっているが、その頃は落ち着いた内装の、きらびやかではないが上品な雰囲気のホテルだった。一応チェックをしてから観光案内まで歩いて行って他のホテルもチェックする。友人が「やっぱりあそこがよかった」というので(お財布係は彼女だし)、私も異存なくまた坂を下る。2つほど部屋を見せてもらって、彼女が窓のある方がよい、と高いほうの部屋を取る(お財布は彼女だし)。

いうまでもなく、エクサン・プロヴァンスといえば、「ポール・セザンヌ」だ。そんな名前のホテルに泊まることが、少し面映く、また愉快だった。ホテルを出て、有名な町の中心にある噴水広場を突っ切り、大通りを歩き、規則があるのかないのかわからない路地を登り、プロヴァンスらしい商品が並ぶ店を冷やかし、青空市場の色彩を楽しみ、さてポール・セザンヌのアトリエを目指してまたさらに坂を上る。せっかく「ホテル・セザンヌ」に泊まってるんだし。未だに、私たちはアトリエにたどり着いていたんだろうか、というあいまいな記憶しか残っていない。その日は月曜日だったので、アトリエがしまっていた、とつい最近まで思っていたが、先日BSでエクサン・プロヴァンスの旅紀行をやっていたとき、そのアトリエの外観自体にまったく見覚えがないことに気づいた。「私らは、何を見てアトリエは閉まってると思ったんだろうか。。。」記憶というのは一人歩きするものだから、まあそれはそれでいい。行けなかったという事実だけはある。

その代わりというか、私たちは翌日、ポール・セザンヌといえばこれ、でも彼のアトリエよりももっと大きなものに会いに行く。

「サン・ビクトワール山」

何を思ったか、その山を見に行こうとバスに乗った。べつにサン・ビクトワール山絶景ポイントなる観光地があるわけではない。「この辺まで行ったら見えるだろう」っていうところまで取りあえず行く。二十歳そこそこの若いバスの運ちゃんがビュンビュン飛ばす。歯を食いしばりながら手すりに掴っているうちに、友人が、わっと振り向く。「あれ!あれ!」

今までにまったく見たことのない形相の真白き山。見たことがあるといえば、セザンヌの絵の中だ。確かに、彼の絵が一番よく「似ている」ような気がした。

エクサン・プロヴァンスの街で買ったチーズやパンを、屋根のあるバス停のベンチで広げてほおばり、後は何をするわけでもなく(どこかへ向かったら二度とバスに乗って街に帰れないような気がして)、ただ山を見て過ごした。1時間ちょっと居た位だが心もおなかも一杯になって、「おそらくエクサンへ戻るだろうバス」を道端で止めて(!)、私たちはホテルへ戻った。

ホテル・セザンヌは、「あ、もどったのね」みたいな感じでさりげなく私たちを迎えた。チェックアウト後、電車の時間までまた街に戻って買い物、という体力もなく(山に生気を奪われたみたいな)、ホテルのロビーで少しうとうとした。こんな風にホテルのロビーで時間を過ごすのも珍しい気がした。個人旅行というのは、なぜかいつもせわしないものだったから。

マルセイユ行きの電車が動き出すと、再び目の前にサン・ビクトワール山が現れた。昨日は雨のせいでまったく見えていなかったのだ。それが結果的にはよかったような気がした。マルセイユで乗り換えて、アルルへ向かう。アルルでは、もう1人の画家が私たちを待っていた。

Those Hotels - #1 星の天蓋

いらっしゃいませ、

何か決まったテーマでブログを書き綴ってみたい、でも「コラム」って感じでもない。そう以前「東○イン」のことを書いて、ああ今まで通り過ぎて行ったホテルや宿泊施設のことを思い出すことは、思ったより自分の内部に入り込んでいく作業だな、面白いな、と感じ、そんなこんなでいろんな国の色んなホテルのことをしばらく書いてみたいと思う。

初めてハワイに行ったのは、1989年6月。覚えている人は少ないと思うけれど、「天安門事件」真っ只中だった。誘われて乗った旅行だったので、計画すべて友人まかせ。全員初めて行くくせに、行き先はマウイ島、宿泊はコンドミニアム、移動はレンタカー、というかなり大胆なもの。

当時は「コンドミニアム」って何?マンションに泊まるの?って感じだったけど、泊まってみるとキッチンはけっこう充実してるし、部屋はホテル仕様より広いし、洗濯機と乾燥機も部屋の中にあったし、ちょっとした日用品の買い物は施設の中でできた。宿泊費も同じような広さだったら断然ホテルより安い。こんなええもんが世の中にはあるのか、と思った。そのとき、ハワイは、「フリー旅行、コンドミニアム、ネイバーアイランド、レンタカー」であるべきだ、と刷り込まれたに違いない。

で、2度目のハワイも「フリー旅行、コンドミニアム、カウアイ島、レンタカー」となった。レンタカーについては、まったくもって勝手なのだけれど、私自身運転しないので、当然できる連れに負担がかかる。なので、ナビ、ホテルでのやりとりを引き受けて、車を使わない日を、隔日で設けるような計画を立てた。だから、ある程度、「居るだけで心地のよいコンドミニアム」を探す必要がある。当時、ABroadが出していた「ハワイのホテル・コンドミニアム」という幻の雑誌を隅から隅まで読み込み、結局「カウアイ島のコンドミニアム」の最初のページにでかでかと載っていた「キアフナ・プランテーション」に決めた。

1995年当時のキアフナ・プランテーションは、改装工事が終わったばかりで、というかまだ途中で、レストランは新築中だった。さらには、何年か前のイニキ(台風)で、隣接するホテルがほぼ崩壊し休業を余儀なくされたため、周りのモールなども人気がなく、車を降りたときには何となく「僻地に来てしまったか」感があった。

そんな、ちょっとしょんぼりした私たちを知ってか知らずか、ビーチボーイの○君は、施設内用の小さいカーゴに私たちを乗せて、ビーチや庭園やコインランドリーやらへ引き回したのである。「コインランドリー、外やん~」と私らのテンションはさらに若干落ち込んだのだけれど。。。

しかしながら、カウアイ島の、他の島にはない緑の豊富さと、人の少なさと、すべてがシンプルな時間の流れに私たちは当然なじんで行った。この島は、2・3日で出てはだめ。かといって、ずっといると体が溶けて、風に舞ってしまうかもしれない。

「外かー」と最初はブーたれてたコインランドリー。ぶらぶらと5分ほど施設内を歩く(ここは広いのだ。)洗濯物を放り込んで、部屋に戻るのも億劫で外でだらだらしゃべっていたその時どちらともなく気づいた。

360度、天空に敷きつめられた星・星・星。乾いた洗濯物をしまいこんで、急いで部屋に戻る。夕食の番をしていてくれたもう1人の友人を、「はやく!はやく!」と部屋の前の庭に連れ出す。あっけに取られていた彼女も、空を見上げて黙ってしまう。庭を突っ切って浜辺に出ると、星は海にも降り注いでいた。それから毎晩、私たちは星を見るのが楽しみになった。天の川は、英語で表現するところの「Milky Way」そのもので、本当に「白濁」していた。

キアフナでの最後の夜、私は夜中そっと部屋を出て、庭の中央で、「星の天蓋」の下に寝そべった。

それ以後、あの時のような星々を私は未だ見ることはない。ハワイ島のマウナケアに登ったが、あそこは大気が澄んでいるので、星が「鮮明に」見えるところだった。キアフナの庭のような無節操さはなかった。

あれから10年以上の時が流れて、今ではキアフナも日本の代理店にネットで予約できるようになっている。当時は直接FAXだったものなぁ。。。アウトリガー傘下になってるし。今日本人スタッフがいるかどうかはちょっとわからない。ただ、オアフと同じように思っていると不便さを感じると思います。でも、不便なんて、忘れなきゃ。それに変わるものが無数にある場所だから。

Kiahuna Plantation


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被写体に恋をしたらシャッターを押し、フワフワしてきたら文章を書き、もわもわしてきたら花に水をやっています。
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