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Hōkele Malama Columns

親ページが「Residencial Azul」から「Hōkele Malama」に変わったので、このBlogのタイトルも変わりました。渾身の(とまではいかない)Columnページです。

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Those Hotels #4 画家の名前ホテル その2

いらっしゃいませ、

画家の名前ホテルその1を書いた後に、なにかぽわーんと抜けていたのか、頭の中が支笏湖に飛んでしまっていた。ブログをじっくり眺めて気づく。じっくり眺めないと気づかないものどうかと思う。

荘厳とか、壮大とか、雄大とか、猛々しいとか、優美とか、そういう形容詞が邪魔くさくなってくるようなモノっていうのがある。音楽とか映画とかでもあるかな。ステキ!とかすばらしい!とか感動しました!とかの文字の羅列は、ごみの日に持っていってほしい、とまで思ったこともある。形容詞を使わずに思いが表現できれば一番よいのだろうけれど。

そう、そんな形容詞が火曜日の燃えるごみの日に消え去るような「サン・ビクトワール山」の視線を痛いほど背中に受けながら私たちはエクサン・プロバンスを離れる。マルセイユで乗り換えて、アルルへ向かう。私にとっては10年ほどのブランクの後の2度目の町。その間に、ピーター・メイルの「南仏プロバンスの12ヶ月」が出版され、大ブームとなった。実は私自身この本を買って、10ページも読まずに今回の旅の連れであったMちゃんに貸した。Mちゃんはちゃんと読破した。なので、彼女のほうが、南仏のミストラルやきのこの見分け方や南仏料理には詳しいのだ。

私と言えば、そういえば10年前にそのミストラルと呼ばれるもの、を経験していたかもしれない、っていうだけだった。11月の末にパリと南仏を訪ねたのだが、「当然南の方が暖かいでしょ。『南仏』っていうぐらいだから。」という意味のない確信だけをもって、比較的その時温暖だったパリを、更なる薄着を身にまとい、離れたのである。アルルからカマルグを抜けて、サン・マリー・ドゥ・ラ・メールという地中海に面した小さな村にたどり着く。突き抜けるような雲ひとつない青空。そして強風。だから雲がないのだ。おまけに雪まで舞い始める。すべてのアクティビティは10月末で終わっている。海辺の人気のすくないレストランで、雪を眺める。ただし、この雪は地元の人にも珍しかったようだ。「こんな寒い日にわざわざどこから来たの?」っていう店の人の、それでも暖かい視線を感じたものだ。

さて10年後、アルルに着いた私たちは、10年前に私が泊まったホテルを訪ねてみる。ん、高いぞ。それから、「地球の歩き方」で評価の高かったかなり経済的な宿に行き、部屋を見せてもらう。Mちゃんがあまり乗り気ではない。彼女はやはり駅近で先に見ていたホテルに気持ちが残っている。あ、これはエクサン・プロバンスと同じパターンだ。宿のおばあさんはやさしそうな人だったので、断るのはしんどかったけれど、Mちゃんは先に外に出てしまっていたので、「友達が暗くてこわい、って言ってるので」って、理由に使わせてもらう。これも言わば、「役割分担」なのだ。うそではないし。

駅近の広場に面した、最初に目をつけていたホテルは、その名も

「Hotel Terminus et Van Gogh」

今度はかの「ヴァン・ゴッホ」である。1つ星。安い。一応シャワー・トイレつきの部屋にしたものの、それらにはドアはなくカーテンで仕切られているだけ。けれど、清潔だったし、悪い印象はなかった。宿のおじさんも気さくでやさしそうな人だった。

もともと、このホテルのあったあたりにゴッホの有名な「黄色い家」があったらしい。第2次世界大戦で焼けて、区画が変わっているが、うっかりするとこれがその建物か!?って勘違いしそうだ。うん、勘違いだ。このあたりは他のもホテルがあるから、同じ場所からの風景を求めて旅する人も多いと聞く。
300px-Van_Gogh_Yellow_House.jpg













黄色い家の「ゴッホの部屋」の絵は、パリの印象派美術館(現オランジュリー)やオルセー、日本でも観たと思う。日本で見たときは、おばさんたちが「やっぱり広い家に住んではったんはやなぁ」と感嘆していた。
gogh-heya.jpg











う、うん、日本人の感覚から言ったら、広いのか。どうだ。

とにかく、この町でもゴッホづくしになる予感が体を満たしたのは、案内された部屋が「ひまわりの間」であることを知った時だったかもしれない。隣は「アイリスの間」だった。ここには、オランダから1人ゴッホ巡礼をしている男性が泊まっていた。これは正しい。ゴッホはオランダ人なのだ。このあたりからエコール・ド・パリと、有名画家を、フランスは全部取り込んでいるから(別にフランスが悪いわけではないのだけれど)、似たような誤解で、ピカソがスペイン人というのを知らなかった人もいる。パリの「ピカソ美術館」で、その女性は大きな声で「え!ピカソってスペイン人なの?」と叫び、次に私の冷たい視線に気づき(日本人が居ない気楽さで口に出してしまったらしいが、ふふふ、ちゃんと居たのだ。)、そそくさとその部屋を出て行った。

オランダ人男性は、アルルに来たことをとても嬉しそうに語っていた。はやり郷土の誇りなのだろう、ゴッホさんは。生きているうちにそうして欲しかった、なんてことは、私らには言う資格はない。

しかしながら、どんな国のどんな町でもあることなんだけれど、ちなんだ土地や絵が描かれた場所なんかには本物の絵はないことが多い。小さな自治体には高価な絵を得たり、維持したりすることが出来ないのだろう。エクサン・プロバンスにもなかったし、アルルにもなかった。でも、「ゴッホ記念館」なるものが出来ていた。もちろん入らなかったけれど。10年前にはなかった代物だ。ただし、ゴッホの絵ははい。

ゴッホが居た町を訪ねたくて訪れた10年前の旅。その時に思いはすべて満たされたから、今回はただただ旅そのものを楽しみたくてきた。せっかく本を読んでくれたMちゃんにも、プロバンスを満喫してもらいたかった。にもかかわらず、町はプロバンスブームとゴッホをかき混ぜて浮かれていた。まあ、これも旅の醍醐味、と言うわけではないが、ムール貝をバケツいっぱい食べよう!と入ったレストランも、「ゴッホ」の名前が付いていた。思わず苦笑い。

が、この旅の終わり、パリに戻って数日を過ごした後、私は「オヴェール・シュル・オワーズ」、ゴッホ終焉の地へ1人足を伸ばしてみた。アルルのゴッホまみれにやられたわけではないけれど。。。彼の最後の部屋は、この村では現存していて、中に入ることが出来る。「バスで連れてこられた」風情の不機嫌な日本女子2人とこの部屋に入った。展示物の椅子に座るなど傍若無人な振る舞いをしていた奴らだったが、1人でこの部屋に入ることを考えたら、まあ仕方ないか、と思った。1人で居るには、ほんと、ちょっとしんどいと思う。

そしてこれも何かの縁なのかもしれないが、Mちゃんと最後に行ったイタリア旅行で、旅行会社の勘違いでアムステルダムに1泊することになり、「ゴッホ美術館」に行く時間を得ることができた。今、ほとんどの絵画が、彼の故郷であるオランダにある。ゴッホ財団については色々批判もあるけれども、ある意味正しいことのようにも思う。

で、後ろにふんぞり返るぐらいゴッホの絵を貪り食った。何かが終わった気がした。とても陳腐な言い方に聞こえるけれど、本当だからしょうがない。ゴッホへの長い旅が終わったのだ。
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